ゲーテ歌曲「野ばら」の歴史(戸川利郎)

『童は見たり、野なかのバラ……』

だれでも一度は口ずさんだことのある歌曲「野ばら」。日本では、シューベルトとウェルナーの曲がよく歌われます。ところが、この有名なゲーテの詩には、過去200年の間に150余曲の作曲が試みられ、愛唱されていたことが、日本とドイツ、オーストリアの学者らの調査でわかってきました。1987年秋には、これをまとめた楽譜集の出版も予定されています。ゲーテの詩(和訳は近藤朔風)の魅力にとりつかれた作曲家は、ベートーベン、シューマン、ブラームス、ライヒャルトら、古今の大作曲家も名を連ねます。1つの詩に複数の曲がつくことはよくありますが、150曲を超える例はなく、あらためてゲーテの詩の偉大さを感じさせます。

日本での研究者、室蘭工大教授(ドイツ文学)の坂西八郎さん(56)は、現在、88曲の楽譜を収集しています。少年時代から「野ばら」の愛唱者でした。1961年、専門分野の資料の中から、「野ばら」に、シューベルトとウェルナーの曲のほか第3の曲(ヨハン・F・ライヒャルト作曲)が存在することを知って驚き、さらに第4、第5の曲もありそう、と強い関心を抱くようになりました。

こうして「野ばら」探しが始まりました。ドイツ語圏を中心に、欧米各国の図書館などに手紙で問い合わせ、資料を集めました。そして、『ゲーテと民謡』(H・J・フォン・モーザー)の論文の中に、「154曲はあるはず」(作曲家や楽譜の記載はない)との記述を読んで、さらにショックを受けました。

1969年、文部省在外研究員として西ドイツのフライブルク大併設の「ドイツ民謡文庫」への留学で収集は活発になり、1970年代に入って西ドイツ・カッセル総合大のエルンスト・シャーデ教授や、東ドイツの科学アカデミーの協力で、研究は一気に盛り上がりました。

1792年、A・J・ロンベルク(ドイツ)が、最初の曲をつけて以来、19世紀末までにわかっているだけで82人が曲をつけました。あと34人の作曲家はわかっていますが、作品が見つかっていません。154曲の中には、一過性のもの、意味がないもの、あるいは消えうせてしまったものも多いといわれています。これまで見つかっているのは88曲。まだ60曲以上はどこかに残っている可能性があるわけです。

「野ばら」に挑んだ作曲家は、19世紀前半の人が多くいます。ベートーベンの場合、1818年に「ばらよ、ばらよ」のリフレーンの部分に譜をつけ、1820年に頭の部分、1822年には、もう一度、1818年のリフレーンに挑みながら、ついに完成には至りませんでした。

なぜ、「野ばら」が、古今の大作曲家たちの創作意欲を刺激したのでしょうか。

専門家は「それだけ、ゲーテの詩が素晴らしいということです。民謡風な詩として、完成度が高く、男女の愛の姿、つまり、多くの人の気持ちを代表しうる詩だから」といいます。

作曲されたといわれる154曲が、すべて演奏されたかどうかの記録はありません。当時、ドイツを中心に、民謡運動が盛んだったこともあり、曲も、その土地の民謡の影響を受けたものが多いそうです。

1987年秋に出版される『野ばら』(岩崎美術社刊)は、見つかった88全曲の楽譜のほか、カール・ハインツ・ハーン国際ゲーテ協会会長の「刊行によせて」、ゲーテの原詩の成り立ち、メロディー分析などの小論文、全作曲家の小伝、「野ばら」研究のいきさつ、日本での状況などで構成されています。『野ばら』は、ドイツでの出版も計画されています。

「野ばら」とは逆に、童謡「むすんでひらいて」のメロディーに、世界中でさまざまな詞がつけられ、歌われている例をまとめた『むすんでひらいて考--ルソーの夢』(岩波書店)の筆者、国立音楽大教授(音楽学)の海老沢敏さんは「ゲーテの詩は、単調で、ポピュラーなので曲がつけやすいのでしょう。そのさしものゲーテも、最近は、あまりもてはやされなくなった。そういう時期だけに、坂西先生らの『野ばら』の研究は、貴重で、おもしろいものだと思う」と話します。

ゲーテの詩には、ほかにも複数の作曲家が曲を付けた例があります。「君よ知るや南の国」「ただあこがれを知る人ぞのみ」「すみれ」などに、ベートーベン、シューベルト、シューマン、チャイコフスキー、モーツァルトらが挑み、「すみれ」には約20曲もあります。

日本では、『海は荒海、向うは佐渡よ--』の「砂山」に、中山晋平と山田耕筰が作曲し、ともに愛唱されているのが有名です。

わが国へ「野ばら」の曲が入ってきたのは明治以降。1909年(明治42年)、ウェルナーの合唱曲「野中の薔薇」が、1912年、シューベルトの曲が「葉かげの花」と題して登場し、現在まで歌われ続けています。

昭和に入ると、合唱コンクールの流行で「野ばら」愛唱家が一気に増えました。男声合唱がウェルナー、女声にはシューベルトが好かれたといいます。

そして、第2次大戦後、“野ばらブーム”が起きます。1949年から1951年にかけ、小、中、高校のほとんどの音楽教科書に採用され、どこの学校からも『童はみたり……』の歌が流れることになります。

だが、さしもの「野ばら」も1971年ごろから衰え始め、教科書の必須(ひっす)曲から選択曲へと“格下げ”となりました。「めでつ」「たおりて」「とわの……」といった古典調の言葉が、現代っ子には敬遠されたようです。

ある中学の女子合唱クラブ員数人に聞くと、ほとんどが「知らない」「どこかで聞いたことがあるが歌えない」と答え、聞かせると、ウェルナー曲よりシューベルト曲の方が「明るい」「ビートがあるので好きだ」という受け止め方でした。

戸川利郎

参考:http://www.christianmusicdaily.com/content/view/240/63/